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青島の歴史(長いよ!)。まずは1897年まで。

軍港として始まる青島の歴史

歴史的に山東半島の港は半島北部に集中し、青島は膠州(現・膠州市)が管轄する膠澳と呼ばれる辺鄙な漁村に過ぎなかった。明代には倭寇対策の城砦が建設され駐留する軍目当ての商人が集まったこともあった。

清朝になると現在の大学路付近(管理人注釈:東方飯店前の並木道。)に青島村という寒村があり、清末期には青島口という小さな港町を形成するに至った。1859年には青島口に税関分局が設けられ、1865年には煙台の東海関の分関が置かれた。

1891年に国防上の観点からこの地に海軍の桟橋など軍事施設が建設され、翌年に登州の兵力が膠澳に駐留し、総兵衙門が青島村に置かれ、町の発展が始まった。

Via:Wikipedia 青島市

1891年までは小さな漁村に過ぎなかったようですね。一方で青島の東部に広がる労山は、道教の修行地として紀元前140年に開かれていますから、一概に歴史の浅い街だとは言えません。

ただやはり、他の都市に比べると中国観光の醍醐味である「歴史的な面白み」に欠けてしまいますね。上記の労山に関してもそこは観光地ではなく修行地ですから、アクセスやホスピタリティはイマイチな訳ですよ。

そして、1898年から始まるドイツ租借

ドイツ租借の始まり

1897年11月1日、山東省西部の鉅野県(きょやけん、現在の菏沢市)でドイツ人宣教師二人が殺される事件が起こった。この「鉅野事件」( Juye incident )は、ドイツのヴィルヘルム2世皇帝に、「ドイツ人宣教師の保護」という侵略の口実を与えた。

11月14日、ドイツ海兵隊は長期航海途中の上陸と陸上訓練とを口実に膠州湾に上陸、戦闘なしで膠澳の総兵衙門にいた清国兵たち1,000人以上に退去を命じ、湾岸全域を占領した。11月20日、清独交渉が始まったが、翌1898年1月15日、宣教師事件の和解という結果で終わった。

数ヵ月後の3月6日、ドイツ帝国は独清条約を結び、膠州湾を99年間清国政府から租借することになった。この租借地に、この周辺最大の膠州の町は含まれていなかったが、湾の水面全部と湾を囲む東西の半島、湾内外の島々は租借地となった。

租借条約はドイツの勢力拡大に一定の歯止めをしたにもかかわらず、ロシア(大連)、イギリス(威海衛および香港外側の新界)、フランス(広州湾)への、同様の99年間租借に次々とつながってしまった(「9」は「久」につながり、99は久々となり永久の意味になる。イギリスが新界を租借した例は典型である)。

Via:Wikipedia 膠州湾租借地

こうして青島の新しい歴史が始まります。

それにしても、ドイツ帝国と清朝が結んだ99年という租借期間が、後の99年間の香港租借に繋がっているとは!しかも駄洒落ジャン!4649!

青島の発展に尽力したドイツ帝国

中国での港湾確保は、世界各地にドイツの海軍基地網を築く以外の、別の目的も伴っていた。艦隊増強によるドイツ国内外での強い緊張を考えれば、中国におけるドイツ植民地はドイツ海軍の宣伝場所にもなるべきだった。膠州湾租借地は当初から、模範的植民地を目指して建設された。

すべての設備や行政機関、その能率のよさなどは、中国人、ドイツ国民、そして世界に対して、群を抜いて効果的なドイツ植民地政策を見せ付けるものになるべきものとされた。

財政部、建築部、医務部は総督の直轄であり、これらは健康で快適で、経済や貿易が順調に回る、模範的な植民地作りという任務にあたって重大な役割を果たした。

厳格な金融制度、輸出入の関税の自由化、中国人からの土地の買収と測量によって土地を安全に取引できるようにする制度、埠頭やドックの整備、ヨーロッパ風で建築規則の厳格な街並み、移住させた中国人用の区画(管理人注釈:現在の台東地区)作り、街路樹の整備や禿山だった周囲の山々への植林、上水道と下水道、病院や小学校、ドイツと清の共同出資による独華大学などがこの地に実現した。

小さな港町だった膠澳は、緑が多く商業・法制度の整った一大商港・青島へと発展を遂げた。青島は埠頭やドックの使用料、農産物や石炭の輸出で多くの歳入を得た。

膠州湾租借地はそれ以上に艦隊を宣伝する場であったため、海軍省は経済や、後には文化の発展に力を入れた。

Via:Wikipedia 膠州湾租借地

こうして広大な中国の片隅、辺境の地であった青島が、世界史の表舞台へと第一歩を踏み出した訳です。

青島駅に青島港、青島ビール、青島と省都「済南」をつなぐ鉄道、現在新幹線を製造している四方車両工場、造船工場(現青島造船)、繊維工場(現青島国棉)、食肉工場(現食肉会社ベローナ)、電灯工場(現青島電営)これらは全てこの時代に建設されました。

もちろん、基督協会とカトリック教会もこの時代で、他の都市には無い独特の雰囲気がこうして築かれたのですね。クリーム色の壁に赤い屋根、整備された町並みとそこから見下ろす青島の海、この路地裏からの風景が管理人さんのお気に入りです。

1914年~1922年、1938年~1945年に渡る日本統治

立派な桜並木のある街、青島

第一次世界大戦でドイツに宣戦布告した日本は1914年膠州湾のドイツ要塞を陥落させて占領下に置き(青島攻略戦)、1922年に中国に返還した。

北洋政府はここを中央政府直轄の特別行政区である膠澳商埠とし、国民党政府は1929年青島特別市を成立させ、1930年青島市と改称している。

1938年日中戦争が始まると、青島は再び日本軍の占領下に置かれた。

第二次世界大戦後には青島は米国西太平洋艦隊の司令部所在地となったこともある。しかし1949年6月2日中国人民解放軍が青島に入城し、中国共産党政権の支配下に置かれた。

Via:Wikipedia 青島市

1945年の終戦時には3万人以上の日本人が活動していたそうで、中山公園の桜並木はその当時に植林されたものです。今でも風景を偲んで、当時青島で生活していた方々がこの地を訪れています。ただ、オリンピックに伴う旧市街地の再開発工事で、当時の住居のほとんどは取り壊されてしまいました。

1984年に対外開放されるまでは寂れた街

お世話になっている青島人のおじさん、おばさんによれば・・・

そのおばさんは天津の音楽学校に寄宿生として通っていました。全国各地から音楽を志す学生たちが集るわけですが、そこで青島出身と明かすのが恥ずかしかったそうです。その当時は、青島は寂れた街で今のような発展は思いもしなかったと語っていました。

1984年の鄧小平時代に対外開放されると、今の新市街地の開発計画が始り、それまでは一面畑だった風景(今の南京路に川があり、農業には最適な土地だった)が現在の近代的な街へと一変しました。

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